2006年02月12日

思いやり考。

7ec87881.JPG「思いやり」は大切であると言われますし,その通りだと思います。しかし,この世には多くの偽善者が居ると共に,対外的に思いやっているように振る舞う人がいます。優しさと甘さをはき違えている人やイエスマンを思いやるある人と勘違いしている人たちもそれに当たると思います。
僕は妻や家族との関係を思うとき,家訓?のようなものを構築しようと考えたときがあり,その条項の一つが「相手の心を思いやる」というものです。
人は外的な行動を起こすときに,内的な考え(心や生き方自体)があった上でその行動が生じると思います。そのときに表面的に相手に見える「思いやり」とは前者の外的な行動でしかありません。その行動は結果として実体がある行動ですから感謝に値するものでしょう。しかし,その外的な行動の理由や動機付けである「内的な考え」に何があるかを僕は考えるべきであると思います。
もしもそれが自己の利益に基づく行動であるならば,その思いやりは表面的なものでしかないと思います。一方で,それが相手に向けた利益に基づく行動であるならば,その思いやりは実質的で真の思いやりであると思います。
だから僕は妻や家族との関係においては,表面的な行動には感謝すべきであるとしても,僕らが家族に対して考えなければならないことは,その行動の源にある内的な考えにこそ思いやりを持つべきであると思います。
そして,それは他の社会においても一緒であると思っています。僕は社交辞令的な綺麗な言葉はいりません。むしろ僕のためを思っての批判的な言葉こそが僕への思いやりであると思います。子供を褒めて育てることは大切ですが,大人の社会においてはそのような表面的な思いやりを主体とした関係について,僕は疑問を持ちます。


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